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ドクターズインタヴュー#06 加納宣康先生

加納宣康医師 亀田総合病院
特命院長補佐、主任外科部長、内視鏡下手術センター長
加納宣康先生


帝京大学医学部外科学客員教授、マハトマ・ガンジー・メモリアル医科大学名誉客員教授
1993年、日本人として初めて米国外科学会のInternational Guest Scholarに選ばれる。
<著書>
・手術書
「腹腔鏡下手術 これは困ったぞ、どうしよう!」(中外医学社)、 「腹腔鏡下手術テクニックマニュアル」(南江堂)、 「消化器内視鏡下手術シリーズ〜標準的手技を学ぶ 基本手術手技」(へるす出版)
・エッセイ集
「いい患者さん、困った患者さん」(新潮社)、 「医は仁なり いまだ健在」(幻冬舎ルネッサンス)

医師を目指したきっかけ


小さい頃から体が弱くて、いっぱい病気をしていたんですね。それでも野球や陸上競技には一生懸命でした。中学3年生の頃には長距離走が得意になって、自分は陸上競技で行こうと決めました。アベベのような選手を目指すつもりでした。ところが高校入学直後に虫垂炎を患いまして、手術を受けたんです。手術は無事でしたが、早く走りたくてしょうがなかったので、術後10日で練習を再開しました。そうすると原因不明の腹痛が始まって、走れなくなってしまいました。練習がしたくてもなかなか治らなくて、焦りながら悩む日が続きました。病院に通院するようになって、待合室で他の患者さんたちに囲まれて待っていると、ふと、周りの患者さんたちこそとてつもない不幸を背負っているような感じがしてきました。そこで突然、自分が医者になってこういう人たちのために働こう、という考えが浮かび、医師を目指すことにしました。
今になってみれば、色々な試練は、自分が医者になるために神様が与えてくれたもののように思います。


恵まれない環境は自ら変えるしかない


外科医として大きく踏み出されたきっかけは何だったのでしょうか?


きっかけというより、世界に通用する医者になるという思いは学生時代からずっと持っていました。
卒業後は、アメリカでレジデントをやろうかと思ったんですけれど、当時はちょうどベトナム戦争が終わって、アメリカの病院には帰還した医者が溢れていました。結局、岐阜県内の病院に赴任しました。症例が少ないところでして、勉強の機会が少なくてはいけないと思い、そこでは昼も夜も患者さんを診て、経験できる症例数を増やす努力をしていました。消防署にも電話して「救急は何でもうちに送って下さい」と頼んでいました。夜は、自分のやりたい放題と言いますか、外科だけでなく、内科、婦人科、小児科でも何でも自分で考えながら一生懸命診ていました。そうやって病院を流行らせながら、手術症例を増やして勉強し、患者さんにも喜ばれ、病院の収入も増やす、ということを目指して頑張っていました。
私が赴任してから、その病院の手術数と収益は急激に伸びました。そのため同院での勤務期間を何度も延長してほしい、と同院からも大学医局からも頼まれ、結局3年間いましたが、自分が中心になって手術も麻酔もしていましたから、たいへん勉強になりましたね。症例の少ない恵まれない環境だったら、自分で恵まれた環境にするしかないという思いを持っていました。ただ今思えば、卒後2年目で消防署に「何でも診ます」と電話するのは、やり過ぎだったと思いますが(笑)。


「世界の7人」へ


その後岐阜大学に戻り、実験をしていた時期がありましたが、ある病院の麻酔科医長が辞めることになり、急にその代理を頼まれることになりました。国立東静病院(現在の静岡医療センター)という大きな国立病院で、私はまだ6年目でしたが、大学の医局長から「お前なら手術も麻酔も両方やれるだろう」と言われて、突如、麻酔科医長代理になりました。今では考えられないことですけど、一人しかいませんでしたから、3列麻酔や、時には4列麻酔なんてやっていました。半年後には外科の仕事にも戻り、麻酔科と外科を兼任する状態が2年ぐらい続きました。手術もたくさんやって、胃切除、肝切除、食道癌の切除、膵頭十二指腸切除術など術者として出来るようになり、自信がつきましたね。
その後、再度大学に戻り、このまま定年までと思ったのですが、1年後には岐阜県の羽島市民病院に行って欲しいと頼まれました。どんな手術も出来る外科部長が病院再建のために必要だと言われたのです。これまでの経歴から、何となく周囲からは「加納は病院の再建屋」と呼ばれていました。実際に同院が1年ぐらいで再建出来たと思ったところへ、医局から次は超近代的な新病院の松波総合病院への赴任命令がでました。

加納宣康先生 こんな生活をしていましたから、大学で落ち着いて論文を書くような機会がなかなかありませんでした。それでも病院で臨床をやりながら論文は書き続け、新しい手術法や珍しい症例を発表していたんです。やがて日本消化器外科学会の評議員に当選できたのですが、一般病院にいながらも私の業績がしっかりとした形で全国的に認めてもらえるようになったのだなと感慨がありました。
またその頃、米国外科学会(ACS)が毎年世界で7人だけ選ぶInternational Guest Scholarshipに応募しようとしていたのですが、研究機関にいることが応募資格だったのです。ちょうどそのとき帝京大学から助教授として招かれまして、見ず知らずのところでしたが、周囲と相談した上で行くことに決めました。また、応募資格は42歳までとなっていましたが、41歳と11ヶ月ぐらいでのぎりぎりの応募でしたね。世界中からの200人以上の優秀な応募者の中から選出されてから感じたことは、結局自分はアメリカでレジデントはできなかったけれど、それよりも遥かに高い評価を獲得したなあという満足感でした。


病院の建て直しに貢献しながら、医者としてのスキルアップも両立しようとすると、ぶつかったり、矛盾を感じることもあったのではないですか?


矛盾というよりも、私は病院から建て直しを頼まれれば、病院の再建にもまた生きがいを感じます。患者さんを沢山集めて、たくさんの手術をすれば、病院の建て直しになりますし、同時に自分の外科医としての修行になります。また、病院の宣伝をするには論文が特に効果的です。論文を発表すれば、医者の間で病院の評価が高まるので、結果的に患者さんが集まります。臨床現場で一人一人の患者さんを大切にしていけば、口コミで患者さんが集まってくれるんです。


“進歩している実感”は必要


加納先生は仕事を苦にせず励んでいらっしゃいますが、一方で病院の勤務に耐えられないドクターが増えてきています。日本の医療費の給付は決して高くはなく、医者に対する要望はどんどん高くなっていますが、先生はどのようにお考えですか?


日本の総医療費はGNPに対して本当に低く、アメリカの半分以下です。それなのに世間はアメリカと同じ従業員数を求めています。従業員数の不足に今の医療費で応えるのは当然無理です。医療費を上げずに、医療従事者の犠牲の上に成り立たせていてもいつまでも続きません。医療費を上げ、そのために消費税も上げるべきだと私は思います。民主党が4年間は消費税を上げないとしましたが、勇気を持って最初から消費税を上げ、社会保障に使わなければいけない、というのが私の意見です。

病院に医者が来てくれないといいますが、私の元でレジデントを希望する医者は多く、競争率は10倍ぐらいです。若い人が満足できる卒後教育をしているからだと思います。外科の場合は、早くから手術の経験を沢山できるようにしていて、手術には指導者もちゃんとついています。
医者は、仕事がキツくても給料が低くても、自分の進歩を実感できれば喜んで来てくれるんです。私の基本方針は「24時間、365日、休みがあったら損と思え」でして、これに同意できないなら来るなと言っています。厳しい方針に同意した人たちが、競争率10倍で集まりますから、レジデントはみな優秀ですし、厳しい修行にも耐えます。やはりやり甲斐があれば少々キツくても我慢しますよ。限界を超えてしまったら、何らかの見返りが必要ですけれど。大学病院から医者が減ってしまったのは、手術の機会がないからです。20〜30年も外科の教室にいたけれど手術にはちょっと自信がない…というのは、外科医の人生としてあまりに寂しいですよね。臨床医として力がついている自覚があれば、相当辛くても頑張れる筈です。


良い場所には良い医者が集まっていますが、地方都市の救急病院などにいる医師たちは音を上げ始めています。トップレベルの環境以外で、良い先生を育てる方法は他にないでしょうか?


私は今でこそ良い病院で良い教育システムを作り上げていますが、私の若い頃などは、全然良い病院にいなかったですよ。幸か不幸か、潰れそうな病院に行っては、自分の修行のためにも患者さんを増やさなければと一心にやってきました。だから亀田のような大きな病院でなければ医者が進歩できないとは思っておらず、むしろ恵まれた病院ではたくましさのない医者ができるではないかという危惧を持っています。ここでは手術は早くできるけれど、根性は徳州会に負けるかもしれません。私のところは、組織化された教育を受けさせ、間違いのない技術を身に付けさせ、しっかりと早く手術ができる、という点では日本で最も成功していると自負しています。ただ、自分の育った環境と比べると恵まれ過ぎていますから、かえって将来独りになった時に逞しさに欠ける医師を作っているかもしれないと思うこともあります。必ずしも恵まれた環境にいなくても自分を磨くことはできるのです。


医者不足と言うが——人間不信とミーイズムの蔓延


私が若い頃は、頑張っていれば患者さんが感謝してくれたものでしたが、今では医者が積極的にやりすぎるとかえって恨まれてしまうこともあります。
かつては、子どもが熱を出せば、内科の開業医や外科医だって診ていましたし、宴会の途中であっても呼ばれれば診ていました。それを患者さんたちは「お楽しみのところをすみません」という具合に感謝してくれていました。
今は小児科以外の医師が子どもを診ると「大丈夫か?」と不信に思われてしまう。宴会を中座して駆けてきても、「酔っ払って診療した」とか「訴えてやる」と、どんな文句を言われるか分らない。ちゃんと正しい医療をしているのにも関わらずです。好意のつもりが訴えられたら損ですから、もう誰も診ないですよ。病院だって呼び出したりしません。ミーイズムが蔓延し、自分さえよければいいという世の中ですから、積極的な医療が出来なくなりました。
このところ、小児医療の危機と言われていますが、以前は医者がもっと少なかったのに小児医療の危機などありませんでしたよ。昔より2〜3倍の医者を作って、私などは医師が過剰になると心配していたぐらいなのに、どういう訳か医者が足りない状態になっています。悲しい事態ですね。


私のクリニックでも専門医でないと嫌がる患者さんが増えて、小児科医にしか子どもを診させたくない人が大半です。昔は医者一人で賄っていたものが、今は4人も5人もいないと患者さんの希望に応えられないとつくづく感じています。


最後に、若手の医師に対してメッセージをお願いします。


医師を志した以上、良い医師になりたいという気持ちがあると思います。そのためには、自分の置かれた場面でどうしたらいいのか考え、それなりの努力をして欲しいですね。安易な方に流れるのではなく、自分に厳しくしなければいけません。厳しいほど勉強になると分かれば、ハードな仕事にも更にチャレンジできるでしょうから。自分を進歩させるために厳しいトレーニングが必要なのだと、十分理解して進んでいって欲しいと思います。


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